善きサマリア人のたとえにみる、よりよい共同体社会へのヒント

聖書に隣人愛とは何かを説く「善きサマリア人のたとえ」という一節があります。
 
「あるユダヤ人がエルサレムから旅をする途中、強盗が彼を襲い、服を剥ぎ取り傷を負わせ、半殺しにしたまま逃げ去った。
 
そのとき、偶然、あるユダヤ人の位の高い祭司が道を通りがかったが、関わり合いを避けて道の反対側を通った。
同様に、レビ人というユダヤ人の祭司の下で働く者もこの道を通ったが、同じくけが人を避けて道の反対側を通った。
 
三番目に通りがかったのはサマリア人だった。
サマリア人はユダヤ人に忌み嫌われている民族で知られていたが、このサマリア人はけが人を見るや傷口の治療をして、自分のろばでけが人を宿屋まで運んで介抱した。
そして翌日になると、サマリア人は宿屋の主人にけが人の世話をお願いし、怪我の治療の費用も払って出発した。」

 
この聖書のたとえ話は欧米の倫理価値観の根幹に非常に関わっている話で、「真の隣人とは誰なのか」「隣人としてどうあるべきなのか」を考えさせられます。
現代でも隣人愛とは何か、隣人愛はどのように示すべきなのか、我々は共同体社会の中でどういう人間であるべきかについては様々な議論や解釈がされています。
 
 
私はこの話を単純な聖書の話ではなく、「他者への適度な関心(Interest)と許容(Tolerance)が世の中を共同体として前進させ、結果的によりよい社会につながっていく」というように解釈しています。
 
私はキリスト教徒ではありませんが、よりよい共同体社会を形成する一員でありたいと願う一人です。
どうしたら、世の中が良くなって平和になるのだろうと考えると、やはり、それは他者への適度な関心と許容を一人一人が持つことではないかと思い至るようになりました。
 
 
過剰な関心はプラスの力で行けば強い愛情を生みますが、それと同時に他者への干渉や依存を生み、妬みや攻撃にもつながって行きます。
 
 
また、許容は他者を自分と異なる存在として理解する上で非常に重要です。
他者に寛容であり、寛大であること。
多様性への許容や許しにもつながっていきますよね。
 
 
社会の価値観が複雑になり、いろんな人がいるからこそ。
今こそ善きサマリア人であるにはどうしたらいいのかを、ひとりひとりが学び、考える時代なのだなと思っています。
 
 
 

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